陳氏太極拳協会双月会

〜陳沛山老師の呼吸と明治以前の日本人の呼吸〜

「文化」とは?
という問いに「文字を有するもの」と答えられている歴史学者の方がおられました。
象形文字も甲骨文字も「文字」があるから現代人もその存在を知り解読を試み解明できるのだ。
というお話でした。

なるほど。だから「文明」や「文化」という言葉には「文」という文字が付くのか。と思う事でした。

けれど「文字」が無くても高度に組織化された「社会」があって「生活」や「習慣」がある。と思った事はありませんか?

日本も古く倭の時代には「文字」を持たなかったと言われています。
稗田阿礼のような語部が言霊に託して次の世代に繋いで行った。それがやがて「文字」という「文化」を得て古事記へと繋がったのでした。

しかし「日常を文字にする」という行為は「生活」や「習慣」をそのまま文字として残す事にはなりません。
書き残すという行為は書き手の他者へ「残す」「伝える」という『意思』がそこに含まれるからです。

個人のレベルにしても自身の事を伝えようとする時、「自分とは何者なのか?」というアイデンティティを考える。それは自分以外の者との比較で己を知ることから始まります。
他者と比較して初めて己を知る事が出来るのです。
「生活」や「習慣」においても同じ事が言えます。
他の生活や習慣との比較が無ければ、それが当然の事と思ってしまって残すべき特性としては認識されず文字に残りにくい。という事が言えるわけです。

例えば「人々が居る」という事を文字にする時「人々が生きてそこに居ます」とか「人々が生きて呼吸しています」なんてわざわざ文字にしませんよね。
何故なら生きているのは「当たり前」の事ですし
「生きている」=「呼吸している」
事なのですから…。

さて、前置きがかなり長くなってしまいました。

現在、コロナ禍で沛山老師のオンライン講習会が行われています。その中で老師が
「皆さんは私の呼吸がうるさいと感じられるかもしれません。」
というお話をされた事がありました。
これにより老師は太極拳をする時、呼吸は意識的に音をたてているという事がわかります。

先にタイトルで「陳沛山老師の呼吸と明治以前の日本人の呼吸」という事をあげさせて頂きました。

日本は鎖国という時代(今はあれは鎖国ではなかった。という考えもありますが)から開国を経て明治に多くの外国人が日本を訪れました。
当時日本を訪れた外国人は「日本」という「異国」を「自分の国とは違うもの」としてその「生活」や「習慣」を書き残しています。
その中におもしろいものを見つけました。それは
「日本人は挨拶する時「ゴーッ」という音を出す」
というものです。
挨拶の時に日本人の出す「音」についてはトロンソンやエルマーストなど何人かの人が記述を残しています。

こういう記載は日本人の書物に私は見た事がありません。
つまり日本人にとっては「自然な事」だったのでわざわざ文字に残す必要が無い事だったのでしょう。
現代の日本人は挨拶する時「ゴーッ」と言う音は出しません。
明治から現代の間で「何か」が抜け落ちていつの間にか無くなってしまったのでしょう。

ふと古武術の先生のお話が頭を過りました。
「現代と昔の「動き」「トレーニング」には大きな違いがある。現代人は重い物を重く持つ事によって身体を鍛えている。けれど昔の人は労働の中で身体を鍛えた。だから重い物を如何に軽く扱うかに長けていた。」
という言葉です。

日本人が挨拶する時に出す音。
「言葉」ではなく「音」。つまり呼吸音ではないでしょうか?
日本人が挨拶する時に行う異国とは違う行為「お辞儀をする」という動き。
頭は重さだけで5キロほどはあると言われています。
「重い物を如何に軽く扱うかに長けていた」日本人。
そんなものが点と線の様に私の頭の中に広がって行きます。

沛山老師の呼吸ももしかしたら現代の日本人が忘れてしまった身体の使い方に通じているのかもしれません。
 
そもそも武術としての呼吸は「音を出す」という事を目的にはしていないはずです。発声する事によって呼吸や筋肉をコントロールする事、そして口型や発声、それらは身体の内圧や骨伝導として伝わる周波数にも影響を及ぼすことでしょう。
「勁は入骨する。」という言葉と発声によって起こる骨伝導の周波数はもしかしたら一つの導きになるものなのかもしれない。
そんな事を思う私の独り言でした。

「双月会」竹之内朋子