陳氏太極拳協会双月会

〜「太極拳」と「気」〜

太極拳をしていると「気」と言う言葉をよく耳にします。
人には元々「先天之気」と「後天之気」があり、太極拳では「意」によって体内に「気」を巡らせていると考えられているのです。

さて皆さんは
「私は気で病気を治せる」
と言った類の事を言われる方が居られる事もご存じでしょう。
私は「気」にも色々なものがあり、この類の「気」を太極拳の気とは明確に分けて「空想の気」と呼んでいます。
(あくまで個人的考えである事を書き足しておきます。)

いや実際気功の方など気を扱える方はおられるのだろうとは思いますが、他人の病気を治す「気」を扱う方々と太極拳の「気」は別物だと思っているのです。

太極拳を始めたばかりの頃指導者は特に形(外形)を厳しく指導します。
「立身中正」「尾閭正中」「沈肩墜肘」「虚領頂勁」など太極拳において求められる事は数多くあります。

意識しなければいけない事が多くなると太極拳を習う側は自分の思考(空想)を入れる隙間が無くなります。
求められた通りにフレーム(外形)を作り上げることに集中しなければならないからです。結果として形が整っていきます。

外形を作るために情報量を増やす。意識しなければならない事、気をつけなければならない事が多いと人は「気を通す」と言う内勁の意識は二の次になります。
しかし結果として自分の身体のコントロールがいつの間にか出来るようになるのです。
「空想の気」を入れない為にこんな方法があったのだと気づいた時は目から鱗でした。

「やる事が決まっている」
と言うのはある意味一番間違いが無いのです。
やり込んで行くと要らない力はどんどん抜けて行きます。
そして気づけば意識は外形を作る事(筋肉のコントロール)から内勁の充実へと向かっていきます。

私達は殆ど人間の構造(筋肉や腱など)を直接見た事はありません。
なので「身体の中に意念を通す」と言った行為もある意味想像でしかありません。
しかし、筋肉の分離はおろかコントロールも出来ない人は『「想像」を超えて「空想力」を働かせてしまう』事になります。
わからない事をやる時空想するしか無いからです。
私はこういった「わからない事に気を通す」といった類の気を「空想の気」とよんでいるのです。
空想力は果てることを知りません。「空想の気」を通す方法は多岐に「広がる」事でしょう。

しかし、自身の身体のコントロールや分離が出来ていれば見えなくても感覚を感じる事が出来、自分の身体の「ココを通す」という明確なものを得る事が出来るのです。
つまり太極拳を学ぶ者は空想力を一切働かせないようにして、自分の身体の筋肉の分離とコントロールにより意念が通る感覚を掴み取る事だけに「集中」していく。無限に広がる「空想の気」とは明らかに違います。

「気」という言葉は時に誤解をうみます。

「生気」や「元気」がある様に人によってはその人の近くに行くだけで元気をもらえる。そんな人もいます。
人との交流の中で安らぐ事もあるでしょう。
しかし、それと他人の「病気を治す」という事は別物だと私は思っています。

太極拳だけでなく、運動指導者は身体の相談をされる事も多くありますが、私は
「運動指導者は医療に踏み行ってはならない」
という言葉をいつも肝に銘じています。

私には人の病気を治す「気」は持ち合わせておりません。
けれど地道に一歩一歩皆さんと共に太極拳を学び楽しむ事が出来たら結果として自身の健康に繋がって行くと考えています。
「双月会」は今日も一歩一歩皆さんと共に。

「双月会」竹之内朋子