陳氏太極拳協会双月会

〜日本社会の中で息づく朱子学〜

2023年、令和の時代となり新しい価値観や思想が認められる社会となっていると感じる一方で未だにこんな事が忖度の元許されて来たのかというニュースが流れます。自分の嗜好の為に子供や若者を玩具にして「人格の殺人」を長きに渡って繰り返していた経営者。驚きと落胆にも似た思いです。
日本という国が思考停止しているのではないか、全体主義に陥り個人の心がかき消されているのではという思いに囚われました。

日本は他の国に比べれば宗教を信じる人が少ない国といわれますが、私はこれは日本が宗教を社会基盤に置くのでは無く儒教・朱子学などの思想哲学が学問として長く社会基盤を支えて来た歴史がある為と考えています。

人に上下があると説いた朱子学。支配する側とされる側。そんな関係性が令和の今の時代にも脈々と受け継がれていると感じました。

そこで今回は日本社会のなかで息づく「朱子学」について取り上げてみようと思います。

朱子学は
南宋の学者
「朱熹」(しゅき)1130〜1200
が儒教(じゅきょう)(春秋時代の思想家「孔子」が説いたもので親愛の情を大切にし、家族の道徳を実践すれば社会の秩序が保たれるという教え)を解説体系化しさらに個人の考えをプラスして考え出されたものです。

「朱子学」の特徴は上下関係、身分制度を守る事に重きを置いたものでもありました。
自分よりも身分が上の人や父親の言うことは絶対、とする教えを「君臣父子(くんしんふし)の別」と言います。

日本でも徳川家康が、幕藩体制の基本理念として、朱子学を採用し、家臣や大名に広く学ばせ普及して行きました。

明治維新を迎え、西洋の文化が入ってくると、朱子学は過去のものとなったようにも見えます。

が、一方で、日本人の行動や考えは、未だに、朱子学の思想が根付いているように感じるのです。自己主張しない。空気を読む。上の人の言う事に服従する。忖度する。などなど…。

私は「人の価値観」というものは数年、数十年で大きく変わる時があると考えていますがそれが生活の中の「習慣」、「文化」に組み込まれてしまうと変革はなかなかに厳しいと感じています。日本でも、朱子学が「習慣」や「文化」として生活に組み込まれていた。だからこそ今回の事件も今まで黙殺されて来たのかもしれません。

事件の発覚も日本社会の自浄作用によって明るみになったものではありません。海外メディア、BBCのドキュメンタリー放送によるものでした。
朱子学の様に人間に上下関係を作り絶対的服従を強いられると、上の立場の者が「悪」であるならば自浄作用は起きようがありません。

さて、朱子学の後中国には「陽明学」が現れます。

陽明学は、明の儒学者「王陽明(おうようめい)1472 〜1529」がおこした学問です。

権威や秩序を重んじる朱子学と異なり、陽明学では、「心のままに、自分の責任で行動すること」を説いています。
また、目上の人にただ従うのではなく、間違っていると思ったら従わなくてもよいとしました。

現在、朱子学が出来て800年。陽明学が出来て500年ほどが過ぎました。
今は社会情勢や生活も大きく変化しています。
知識や情報が貴重な物だった時代と異なり、今は誰もが自由にそれらを得る事が出来る時代となりました。

私はこれからの社会では情報が共有され人権が認められ個人の考えが尊重される社会になっていくと考えています。例え社会的立場が違うとしてもそれは個の価値には比例しない。個は個として認められ互いは尊重される。
そして知識が何よりも重要とされた時代、行動する事が大事だとされた時代を経て、今後は「人の心」こそが最も重要とされる時代になると信じているのです。

これからの社会は個性が輝ける社会であり、支配者だけの物ては無くなると思うのです。
皆の活動が社会を創る共生共存の社会。
その社会を創る活動は決して人々の心を押し殺す事によって成し得たものではなく、人々の信頼を基盤に「My pleasure」「私の喜び」と共にある活動である事を願っています。

「双月会」は誰もが認められ意見や考えの出せる互いに高め合える会である事を願ってやみません。

「双月会」竹之内朋子

補足
今回儒教、朱子学、陽明学を取り上げさせていただきました。
これらの学問は大変深く、素晴らしいものである事は言うまでもありません。
ただ日本では一部の支配者層が考えを拡大解釈して社会に普及させた、使う側の問題があった事も記しておきたいと思います。